三沢光晴さん。三沢さんが亡くなってから10年ですかぁ・・・

早いもので、プロレスラーの“三沢光晴”さんが亡くなって10年経ちました。



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現在、新日本プロレスが大人気で、スタープロレスラーも数多く存在します。
WWEなんか見ていても、実際面白いですもんね!
“中邑真輔”選手も凄いし、“ASUKA”選手なんか大好きです!(笑)

でも、未だ忘れられないのが“三沢光晴”選手・・・
本日、6月13日。
三沢さんは、2009年6月13日に亡くなりました。

もう、あれから10年経ちますので、若いプロレスファンの方の中にはご存知ない方も居るんじゃないですかね?
三沢さんは、試合中にバックドロップを受け亡くなりました。
長年の酷使によって、身体がボロボロになっていて、なかでも首の状態は下を向くのも辛かったそうです。

三沢光晴とは

ご存知ない方も居るかも知れませんので、ちょー簡単に三沢光晴さんをご紹介しますね!

三沢さんは、《全日本プロレス》に入団後1981年8月21日にデビュー戦を果たしました。
そして、1984年8月26日に2代目タイガーマスクとしてデビューをします。

新日本プロレスで、初代タイガーマスクが社会現象といっても良い位のブームを巻き起こし、1983年にタイガーマスクを引退した後、世間がタイガーマスクロスだったちょうど1年後のデビューだったので、大変な期待を受けての2代目タイガーマスクでした。

1990年、「マスクマンが上を狙うのは限界がある」と考えた三沢さんは、5月14日の試合中に突然マスクを脱ぎ、三沢光晴へ戻ります。
この日から、三沢光晴の伝説が始まります。

後に、盟友でもある“小橋建太”選手や、“川田利明”選手、“田上明”選手と共に、全日本プロレス四天王と呼ばれる事となります。
1999年1月31日に師匠である、“ジャイアント馬場”さんが亡くなり、その3か月後に全日本プロレスの社長に就任しますが、1年後の2000年6月に退団し同年7月4日《プロレスリングNOAH(ノア)》を立ち上げます。

あの時代、《K1》《PRIDE》といった格闘技イベントが大人気で、プロレス人気が下火になっていました。
そんな中、プロレス団体で唯一と言って良いほどに、ノアは人気を得ます。
《全日本プロレス》時代にはあり得なかった、《新日本プロレス》を始めとする他団体所属選手との交流も行われました。

三沢社長は、沢山の夢のカードをファンに提供してくれましたが、1番の夢は“三沢光晴”が選手としてリングに上がるカードでした。
僕の中では、対“小橋建太”や、対“高山善廣”戦は未だに忘れられない試合であると共に、今でもしょっちゅう観る試合なんです。

凄かった・・・
プロレスにこれだけ熱くさせてくれるレスラー。
そんな三沢選手が、10年前の今日、広島県立総合体育館の試合中に亡くなりました。

死因は、『頸椎離断』との事でした。

お別れの会

2009年7月4日に、ノアの本拠地であった“ディファ有明”でお別れ会が行われました。
まぁ、凄かったですよ。
媒体によって、若干数字が違いましたが、2万5千人~2万6千人のファンが献花に訪れました。
1つ先の駅まで行列だったようです。

それだけ、ファンの中に残る選手だったという事ですね。
今現在、ノアは衰退してしまって、あの時の選手もあちこちに散らばってしまいました。
引退した選手も、亡くなってしまった選手もいます。

三沢さんのプロレスが好きだった者としては、何だか寂しい気持ちにもなったりしてしまいます。
最近、自分の中のプロレス熱が、あの頃よりクールダウンしています。
小橋さんも居ないし。
嫌いではないですよ!
熱の話しね。

また、プロレスに熱くなることがあるのかは分かりませんが、三沢さんみたいなプロレスをする方は中々出ないだろうなぁ・・・
なんて思ってしまう、2019年の6月13日なのでした。。。

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